apron2019’s diary 

誰もが来やすいカフェを作ることにしました。一般社団法人エプロンのブログ

心の葛藤:高齢化社会における介護問題

親なきあと相談室の藤井さんの投稿を読んで

先日の思いを書く気になった。

母に訪問リハビリを受けてもらうために

先日、施設を医師が訪れた。

医師の到着が早かったのか、母は食堂におり、

すでにかなり機嫌が悪くなっていた。

自分は病気なのか?どこも悪くない。と睨みつけている。

なんでわたしが来るまで待ってくれなかったのかと暗澹たる気持ちになった。

医師であろうと、知らない人がいきなりやってきて

自分になにか言うことが母をどんな気持ちにさせるのか。

今の施設に入って約一年。

母の不機嫌スイッチがどの辺にあって、

それが入ったら手がつけられないこと

気分を変えるのに相当な時間がかかること

施設の人は知っているだろうし、ケアマネも知っているはず。

なのになぜ見知らぬ医師との面談を開始したのか。

しかも医師は母に対しても、

なぜ待ってくれなかったのかと言ったわたしに対しても

あらかさまに嫌な顔をした。

 

認知症とひとくくりにしてはいけない。

老人とひとくくりにしてはいけない。

みなそれぞれ違う人格をもっている。

その人にはどう向き合えばいいのか。

ひとりひとりと真剣に向き合って考えることをしないと、

本人も家族も不機嫌になる。

医師本人が不機嫌になったことに対しては

わたしは驚きすら感じたし、

こんな人に診てほしくない。と思った。

いや、医師かどうかは関係ない。

対人能力の問題か。

どんなに高齢であろうとも、

どんなに扱いにくい利用者(わたしはこの呼び方が大嫌いだ)

であろうとも、どう向き合うかをちゃんと考えないといけない。

考えられない人はその職業に適性が無いと思ったほうがいい。

どんな仕事でも「仕事だから」と、とりあえずやっていると

ろくな結果にならないからだ。

病名一つでみなが同じであるはずがない。

そもそも認知症の前に

母という人間がいる。

自分よりずっと先を生きた一人の女性が

今は高齢になり、認知症になり、車いすに座っている。

高齢でなにかを成し遂げている人は

すごい人だと敬われるが、

いろんなことができなくて

人の手を借りて生きなければならなくなった老人は

利用者と呼ばれて面倒がられる。

気温がぐっとあがった暑い日にも

母は分厚いセーターを着せられていた。

もう驚きもせず、またかと思うだけだが、

どんな神経をしているのか。

母はもう人間には見えないのか。

と、訊いてみたくなる。

認知症は治らないと理解した方がコミュニケーションはうまくいく

松原です。

久しぶりの投稿になってしまいました。

その割にタイトルが過激な感じです。

今日1月18日(土)の2時からの

介護のいろはは

認知症の人とのコミュニケーションというテーマ

でお話しをします。

そのスライドの準備をしていて

感じたのが今日のタイトルです。

認知症が治らないのは

認知症自体が病気なわけではないから。

脳内の障害がもとになり、認知機能がおち

生活に困ったことがあらわれる。

それが認知症なので、脳内の障害を改善しない

限り治らないのです。

今、新薬も出ていますが、

頭の中のゴミを排出することはできても

傷んだ脳を改修できるわけでは

ないのだそうです。

 

治らないと言われると

ガッカリされる方が多いのかもしれませんが、

実はそのことを理解してから接した方が

今の状態を保ち、穏やかに過ごす方法が

たくさんあると感じています。

 

今日の講座では、そこを詳しくお話ししたいと

思っています。

 

飛び入り参加も大歓迎です。

ぜひご参加下さい。

問題行動にはストーリーがある

こんばんは、松江です。

一昨日、母の主治医でもある、

平野先生の講演を聴きに行きました。

(ベネッセさん主催)

1.認知症総論

2.アルツハイマー

3.認知症の対応

という内容でしたが、

あらためて認知症というものがなんなのかを学び、

今の母の状態。わたしの状態。

この先どうしたらいいのかなどを考えることができました。

一番こころに残っているのは、

問題行動にはストーリーがある。

それをいかにひも解くか。

問題行動をしなくて良い環境をまわりが考える。

というところ。

そう。

母にも母の思いがある。

厄介な婆さんでみなさんにご迷惑なのだろうが、

母にも母なりの理由がある。きっと。

 

認知症の人は、記憶が鈍いだけで、

感覚は研ぎ澄まされている。

しぐさやしゃべり方などでコミュニケーションしている。

感情の要素も損なわれないし、

感情自体がわるくなるわけでもない。

周りの環境で症状が変わる。

だから問題行動の際は、どうしてそれを起こすのかと考えてほしいと。

マズローの欲求5段階説

下三段、

社会的欲求

安全欲求

生理的欲求

は、認知症であろうと、高齢者であろうと

障がい者であろうと、

すべての人に満たされるべきものだと仰った。

 

できないことを探すのではなく、

できることをよく理解してあげてほしいと。

 

もちろん他にも多くのことを伝えて下さった。

 

わたしは最前列で一言一句聞き逃すまいとしていたが

途中で泣きそうになった。

 

www.ho.chiba-u.ac.jp

させきさんの話し。ケアマネジャーの役割と通訳の重要性。

こんにちは、松原です。

今日は母の介護をしていた頃の笑い話をお伝えします。

ある時、施設の方から「何かあったらサセキに連絡してください」と言われました。「サセキさん」という苗字は珍しいな、と思いつつ、そのまま平仮名で「させき様」とメモしておきました。

しばらくして、サセキさんに連絡する必要が生じ、電話をかけました。「サセキ様いらっしゃいますか?」と尋ねると、「2人おりますが、どちらのサセキでしょうか?」との返答が。

え〜、そんな珍しい名前の人が2人もいるのか?「女性だったと思います」と言うと、「佐藤ですか?田中ですか?」と聞かれました。ここで私は混乱しました😵‍💫

実は「サセキ」とは「サービス責任者」の略称だったのです。後で恥ずかしながらケアマネジャーに尋ねて初めて理解しました。

初めての介護では、わからない言葉がたくさんあります。さらに業界内で略語が多用されるため、全く理解できないことも少なくありません。サービスを選ぶ際に「これでいいですか?」と聞かれても、よくわからないままうなずいてしまうこともあるでしょう。

ケアマネジャーは、介護サービスとご本人、そしてご家族をつなぐ大切な役割を担っています。

この際、通訳のような役割も必要になります。ご本人や家族の状況を理解し、施設やサービス業者に対してわかりやすく説明することが求められます。

時にはご本人や家族の気持ちを施設側に伝え、逆に施設側の意見を家族に伝えることもあります。

この時にお願いしたいのは、客観的な立場に立ちながらも、なるべくご本人やご家族に寄り添っていただきたいということです。

介護の世界に突然迷い込むと、右も左もわからず不安を抱えたまま過ごすことになります。そんな状況でいくつもの役割を担うと、ご本人もご家族も疲れ果て、孤立感を募らせてしまうこともあります。

現在、ケアマネジャーの数が足りず、仕事が大変だという声をよく聞きます。実際にケアマネジャーの方々と話すと、多くの知識を持ち、状況を改善しようと努力されている姿に頭が下がります。それでも、あえてお願いしたい。

しかしながら…相性が合わないケアマネジャーに出会った時は、変更できることも覚えておいてください。

 

気をそらす

こんにちは、松江です。

週末のオレンジカフェで

「ちょっと気をそらすといいかもしれませんね」

と、発言したこと、

ここにも書いておこうと思います。

母が認知症になり、介護が始まったころ、

わたしは母の一挙手一投足が

いちいち気になって仕方ありませんでした。

今思えばですが、

認知症になった母を嫌悪していたのだと思います。

いじめ

と言っても過言ではないかもしれません。

認知症になったのだから自分では何もできないよね。

わたしの言うことをちゃんと聞いておとなしくしててね。

仕事の邪魔しないでね。

そんな風でした。

母をかわいそうだと思うこともなく

自分の勢力下におく。

しつけと称して子どもを虐待する親と何ら変わらない

介護と称した支配 

 

時間が経った今、

環境を変えた今、

気をそらすといいかもしれまんせんねと

なぜ言ったのかと考え、

気をそらしたきっかけはなんだったのかと振り返ってみると、

それはおそらく

・現実的に母に気を取られている時間がなくなった

・母以外の気になることができた

・そうしていることがストレスになった

・そんなことをしいても変わらないと知った

・そんなことをしていてもいいことがないとわかった

などだと思います。

 

わたしの経験上、

自分の心の平穏のために、早めに気をそらすといいとは思いますが、

そんなことはわたしの経験なので、

やってみたら変わると思うのなら、

やはり一度、思うようにやってみて、

・思うようにならないな とか、

・あんまり変わらないな とか、

自分でわかることが良いかもしれません。

が、

☆ココ大事

しかし、

こっちが考えて

あなたのために良かれと思ってすること

たとえそうであっても、

それはこっち(介護する側)の思いであって、

なんかいろいろ試される(介護される側)の人は

たまったものではないかもしれない。

そこに思いをはせてみることも大事だろうと思います。

 

それは自分のためなのか

相手のためなのか

なにを解決するためのことなのか

 

目の前でじっと見つめられ続ける人も

ストレスかもしれないということ

 

ずーっと同じ悩みを抱えている人、

ずーっと同じ人がストレスな人、

ここらで一度切り替えて、

気分転換してみてください。

 

誰かの一言で光が見えることがある

 

誰かの一言で光が見えることがある。

 

私(松原)が…介護中に

感じたことです。

 

介護の入り口

どんな入り口かは

ひとそれぞれですが、

「今までなかったはずの入り口が

突然現れる」

多くの方がそう感じられるのではないでしょうか。

 

私は、突然現れた「介護の入り口」に立った時、知識も経験もほぼない状態だったので

先が見えず、どのくらい続くのかも分からず

とにかく怖かった。

進み始めてからも、誰に何を聞けばいいのかわからない。

助けて欲しいけれど

誰がどこを助けてくれるのかも

わからない。

だから、調べたことを元に無我夢中で

動いていた。

でも、よくわかってないから行き詰まる。

もうヘトヘト、お手上げとなった。

先の見通しが立たず真っ暗闇の気分。

 

そんな時、仲の良いママ友が介護の仕事をしていることを思い出し、SOSを出した。

「大丈夫、ひとつひとつ順番に進めて行くだけ。」とさらっとひとこと。

その一言で真っ暗だった目の前に

一筋の光が見えてホッとしたことを今でも覚えている。

 

実際、ケアマネジャーを紹介されて

順番に手続きをしたら…

あっという間に母と私の生活は整った。

 

その後も、介護のいろいろな場面で

周りの人との話から

ヒントをもらえたり

励まされたりしたものだった。

 

エプロン高根公団カフェの

「オレンジカフェ」は

そんな介護の入り口に立った方や

もうすでに入っている方

そろそろ始まりそうだな

など介護に関わるかたが

介護をひとりで抱えなくていいように

お話しをする時間です。

誰かのひとことで光が見える

かもしれません。

 

明日3/6(水)

10:00から11:30

エプロン高根公団カフェ

朝のオレンジカフェ開催します。

 

専門職や奥様の介護経験のある方や

現在介護している方など

参加されます。

どなたでもご参加いただけます。

 

参加費は500円です。

 

 

親との別れを迎える覚悟――誤嚥性肺炎の入院から感じた思い


タイトルはAIがつけてくれました。(笑)

わたしがつけたタイトルは、

伝えあいノートを書いてみた。です。


ご無沙汰してます。松江です。

クリスマスの頃に発熱した母。

年末年始は無事に過ごし、

先週再びの発熱で誤嚥性肺炎と診断されました。

今は入院しています。

89歳で認知症、車椅子、要介護4ですので、

入院の際には最期どうするかの紙も記入が必要でした。

日頃、もういいね。

と、思っていましたが、いざ突きつけられると、

一つひとつが責任重大な気もしたし、

何より、いよいよかもしれないのだという自分の覚悟が必要でした。

母との時間を悔いのないように過ごしたいと、

私なりにやってきたつもりでしたが、

それでもなお晴れない気持ち。

なんだかんだ言っても親なのだと思いました。

母は今のところすぐにどうこうならなさそうではありますが、

誤嚥性肺炎はなかなか手強そうで、

いつどうにかなってもおかしくないことを痛感しています。

で、次にわたしがすることは何か。

今のわたしだからやれることは何か。と考え、

母の最期をどこで迎えるのか。

の選択肢の一つとして、在宅支援センターに行き、

退院後、自宅で生活するための準備にはどんなことがあるのか。

そしてそれを行うにあたり、

自分の生活、仕事、心の調整をどうするのかを考えています。

さらに、

今だな。と思ったので

伝えあいノートを書いてみました。

わたしから子どもたちへ伝えておきたいことを書いてみたのです。

書きながら、ここは書きにくいなとか、

ここは要らないなとか、メモを取りながら。笑

そして、書いてみた感想は、

書いておくべきだなということ。

子どもたちへの感謝、

子どもたちがいたことで私の人生がいかに幸せだったか

それを再認識できたことで、これまでの人生に悔いがないこと。

だからわたしは延命しなくて良い。に繋がり、

何よりも二人がわたしのことで、関係を悪化させたり、

未来を損ねてしまわないことが最大の願いだとわかりました。

伝えあいノートを書くことで、

死ぬということに自分自身が向き合ってみた結果、

自分が幸せだったと実感できたのです。

死と向き合った結果、

これから自分がどう生きたいかが見えた気がしています。